1945年12月2日生まれ。移動カーニバルを率いた両親とともにアメリカ南部、中西部を転々とする生活を送る。のちにカリフォルニアに移り、オレンジ・カウンティで10代を過ごす。高校を卒業後、デニーズやアイホップなどでウェイトレスの仕事をしながら映画学校で学ぶ。UCLAにて映画を学んだのちにテレビ番組の制作、撮影、編集に関わるようになり、1974年、自身の音楽ビデオ制作会社ROCK’N REELを立ち上げ様々なアーティストのライヴを撮影。ロサンゼルスで音楽ビデオに特化した初の会社であった。1981年、ロサンゼルスのパンクロックシーンをとらえたドキュメンタリー映画『ザ・デクライン』で映画監督デビュー、批評家から絶賛を浴びた。そのパンクロックへの興味は持続し、1983年にはB級映画の帝王ロジャー・コーマンのもと、『ザ・デクライン』の劇映画版ともいえる『反逆のパンク・ロック』を発表、B級作品ながらもアメリカ郊外の馴染めない若者たちのリアルな姿をとらえ、シカゴ映画祭で受賞するなど一部で高い評価を得た。その後映画『スパイナル・タップ』の監督を打診されるも断り、チャーリー・シーン主演の『ブロークン・ジェネレーション/撲殺!射殺!極限の暴力少年たち』、アクション映画『激突 特捜コマンド!恐怖の救出指令』などを手掛ける。ちなみに『スパイナル・タップ』はロブ・ライナー監督で制作され、史上空前の大ヒットを記録。「ヘヴィ・メタルを小馬鹿にした映画はやりたくない」という理由で断ったのだった。レッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリーやFEARのリー・ヴィングも出演したパンクスのロードムービー×現代の復讐ウェスタン『N.Y.バッド・ボーイズ』の後、マイルズ・コープランド率いるIRSレコードの呼びかけにより『ザ・デクライン』の続編『ザ・メタルイヤーズ』制作を決意、前作から約7年を経て、パンクスが駆逐され、派手な衣装を身にまとったヘヴィ・メタルの面々が闊歩していたロサンゼルスのストリートの模様を映像におさめた。1992年、米国のテレビ番組「サタデー・ナイト・ライブ」の人気コーナーを映画化したコメディであり、キャリアで初のメジャースタジオ作品となった『ウェインズ・ワールド』が興行収入1億ドルを突破する大ヒットを記録、一躍ハリウッドのトップ監督に躍り出る。その後はTVコメディ「じゃじゃ馬億万長者」の映画版『ビバリー・ヒルビリーズ/じゃじゃ馬億万長者』やウーピー・ゴールドバーグ、メル・ブルックス、ダリル・ハンナ出演の『ちびっこギャング』などコメディ作品を連発。しかし98年、ふたたびライフワークともいえる『ザ・デクラインⅢ』を発表、路上生活をおくるガターパンクスのリアルな生態をとらえ、以前の『反逆のパンク・ロック』のドキュメンタリー版ともいえる内容は様々な映画祭で高い評価を得る。だが正式な劇場公開を模索するも、興味を持ったすべてのディストリビューターから同時に前二作の権利譲渡を求められ、これを断ったことにより、『ザ・デクラインⅢ』は一切公開されずに終わった。2001年にはオジー・オズボーンとともに1999年OZZFESTの模様を追ったドキュメンタリー『WE SAVED OUR SOULS FOR ROCK’N’ROLL』を完成させるも、音楽の権利処理のトラブルによりお蔵入りとなった。以後はテレビ作品などを多く手掛けている。なお、デクライン3部作の再公開やDVD化は世界中から求められ、特に2000年代以降DVDが普及してからの要望は激しさを増した。様々な権利処理や素材収集など監督自身で3部作復活へ動いてはいたが、最終的に実現にこぎつけたのは監督の娘であるアナ・フォックスである。アナが他の企画や作品を手掛ける前に必ずやり遂げなければならない仕事として3部作復活を監督に進言、膨大な実作業含めてアナがこの仕事を牽引し、2015年6月に米国で待望のBD発売となった。
『ザ・デクラインⅢ』 (1998)
『プロブレムでぶ/何でそうなるの?!』 (1996)
『ちびっこギャング』 (1994)
『ビバリー・ヒルビリーズ/じゃじゃ馬億万長者』 (1993)
『ウェインズ・ワールド』 (1992)
『ザ・メタルイヤーズ』 (1988)
『N.Y.バッド・ボーイズ』 (1987)
『激突 特捜コマンド!恐怖の救出指令』 (1986)
『ブロークン・ジェネレーション/撲殺!射殺!極限の暴力少年たち』 (1985)
『反逆のパンク・ロック』 (1983)
『ザ・デクライン』 (1981)